Con Ong La Bầy

蜂は群れを旅立った .......

L thị Hn & Nguyễn B Vinh

 

実に不思議な縁ですが、

私とChuyen さんとVinhさんは、政治や学位について語ることも、我々の専攻である経済財政、栄養科学、銀行のコンピュータについて論じることもあまりないという仲でしたが、人生の半分以上の45年の間、ずっと親しい関係を保ってきました。

1963年春、純粋で若かったあなたと私が、不安な気持ちを抱きながら、知らない土地、日本に足を踏み入れました。それ以来、私たちはさまざまことについて語り、共有し合い、東京、カリフォルニア、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、ベトナム・・・の大通りや小道を一緒に歩きました。

名前、あだ名、.... 君、Mr ........... さんなどと互いに呼び合っていましたが、近頃あなたの白髪が更に白くなったために、我々はChuyen さんを先生と呼ぶようにしました。Chuyen さんは常に沢山の仕事を抱えていましたので、Vinh さんは先生を「日本の蜂」(The Japanese Bee)と呼びました。

あなたのあの声、いつも微笑んでいるようなあの眼ざし、そして聡明なあの顔立ちがまだこの辺りに残っているような気がしています。

Chuyenさんは外見だけからすると、いつも明るく穏やかな印象ですが、本当は常に全力投球。友人が抱える問題、家族の悩み事の解決、日本の大学生や在ベトナム大学生からの相談に乗るなど、いつも周りの人々を励ましてきました。あなたの若者に対する関心は非常に高く、成長の盛りの大学生に寄せる期待はとても大きかったのです。また、「若人を軽視せず、彼らこそが国の力の源であり、我々の予想を超える成長を遂げ、スピーディに技術を取得する力、瞬発力を持っている人達です。知りたいことがあったら彼らに聞けばいいのです」と言われたことがあります。

来日直後、Chuyen さんは友人と誘い合って空手を習いに行ったことがありました。友達は途中で皆中断してしまいましたが、あなただけは黒帯を修得するまで習い続けました。実を言うと、空手の黒帯を修得するのはそう簡単ではありません。その他、同じ時期に、皆でダンスも習い、純粋な気持ちで青年時代を過ごしました。あなたはTwistのパートナーとしても、最高の踊り振りでした。これは神があなたに与えられた魅力です。その魅力があったから、のち一生をともに歩んだ劉子 (Ryuko) さんを魅了することができたのだと思います。あなたから日本人と結婚することを伝えられた日、駒場にいるベトナム留学生皆であなたと劉子さんの結婚式に出席した日、そしてお二人の最初のお子さんが生まれた日のことは未だに鮮明に覚えています。私はその子供さんにNguyen Luu Anh Dao という名前をつけました。Luu は劉子の劉で、 Anh Daoは桜です。これからのNguyen という男性がAnh Dao(桜)の国にLuu(留まる)するという意味合いで付けました。

あなたのキャラクターの一つは、相手に気を使わせずあらゆる場で積極的に人助けをすることです。 友人の一人が、「Chuyen さんとの出会いがなければ、日本への留学を決意しなかったと思います」と、声を詰まらせながら話してくれました。その友人は留学の手続きを聞きに日本大使館に行きました。待合室でChuyen さんと出会い、「日本へ留学の申請ですか?」と笑顔のChuyenさんに声をかけられ、「ここで待っていますので、日本大使館の職員とお話しが済んだら、コーヒーでも飲みましょう。分かっているところだけでもを教えます」。その言葉通りChuyenさんが待っていてくれました。留学のために何をすべきか、国費と私費という二つの留学制度があると教えてもらったり、来年度のための国費留学の申込はもう間に合わないと言ってくれたり、ご自分はその年の4月から日本への留学奨学金をもらえることになったという知らせが届いたばかりだと教えてくれたりして、二人は気持ちよく語り合いました。 その後、別の知り合ったばかりの人をバイクに乗せ、日本への私費留学する準備をしている友人のところに連れて行ったりもしました。そういう風にしてあなたは友達を簡単に作れるし、面倒みが良いし、また情が深いということで、末永く友情を保つことができるのです。また、あなたに質問や頼みを打明ければ、たとえそれが小さなことであっても或は大きいなことであっても、気持ちよく手を差し伸べてくれるのです。

あなたは、他人に対して怒ったり、また他人に怒られたりすることをできるだけ避ける人です。友人に聞いた話ですが、何かのことでその友人との間がギクシャクし、その日 中互いに口を利かなかったことがあったそうですが、翌日になって、Chuyenさんはその友人の部屋のドアをノックし、自分の部屋へ来るように誘いました。部屋に入ると目にしたものは、二人前の暖かいラーメンでした。食べようと言葉短く声をかけられまた。二人は何も言わずにラーメンを食べ、終わると、Chuyen さんはその友人の目を見て、手を伸ばし握手を求めました。手を握る間、Chuyen さんは微笑みながら言いました、「それでは、仲直りしようね」。ふつうではなかなかできないことをしたChuyen さんは、なんとも言えない愛らしい人なのです!

そして1965年, 1966年、1967年、 1968年と年月が過ぎ、 戦争が益々激しくなりました。私たちはそれぞれ自分の道で、忙しい日々を送りながら、互いに助け合う気持ちを忘れずにいました。大学生時代に、友人の結婚に当たって、あなたと一緒に婚姻の証人になったことや、結婚式であなたと並んで座り、将来について語り合うことが何度かありました。明日のことでさえも分からない、なにも見えない将来についてあなたは言いました。「我々は皆大人だから、それぞれ好きな道を見極め、それに沿って進めばいいのです・・・」

1968年、あなたと私は同じ大学ではないけれども、それぞれ東京にある大学の大学院に進みました。二人は、希望の道を進むために東京を離れていく友人一人一人を静かに見送りました。空港からの帰りが、深夜になった時には、心配だから私を下宿まで送ってくれたりして、あなたのきめ細やかな気遣いが伺えました。途中、二人で交わした唯一の言葉は「気持ちさえ、互いに向き合えば、どこで暮らしていても同じですよね」。あなたは周りの人の気持ちを尊重し、自分の考えを人に押し付けようとしないし、他人の行いを非難したり、貶しめたり、悪口を言ったりしない人です。

1970年、修士課程を修了し、博士課程を東京で続けるはずだった私もついに東京を離れることになり、私を見送りに来てあなたは言いました。「アメリカでは日本とは違うことを学ぶことができるでしょう。その方が我が国ベトナムのためになるでしょう」。そのときからあなたとはずっと離れ離れになってしまい、我々はもう一度、知合いも親戚もいない知らない土地で、新しい生活と戦いを始めました。一方、あなたの方は違う道に進み、祖国の悲惨な状況にこころを痛めながらも、その道を極めていかれました。互いの家族の平和な生活や子供たちの健康を確認しあうため連絡を取り続けました。その際、あなたは「また便りを待っていますからね」と必ず書き添えてくれました。

80年代Vinhさんは東京へ出張する機会が多くなりました。そのたびに二人は会い、稲毛、千葉、駒場留学生寮を訪れたり、お粥を食べに有楽町に行ったりしました。記憶にある一人の女性の様子を見るために、稲毛駅付近にある床屋に行き、そこで年齢を重ねた女主人の姿を見てがっかりしてしまったことや、彼女の若いころと同じぐらい美しい女性がそばにいたことなど、でもまあ自分たちだって髪の色が変わり始めたんだからとか、二人は暗黙のなかで顔を見合わせながら共感した、というようなこともありました。

1993年になってあなたはやっとアメリカを訪れる機会に恵まれ、ニューヨークまで会いに来てくれました。目と目が合って、こころの中にじわじわとした辛さ、口に出して言わないこと、そして言えないことなど、胸に沸き起こってくる思いを仕舞い込みながらも、ニコニコして顔を見合わせました。 再会した日、あなたは静かに庭や家の周りを眺め、色々なことを言いました。日本ではこういうのがまだないとか、あれは初めて見たとか、アメリカは本当に豊かな国だ、とか。

近くに住んでいるExryuとChu Van An高等学校の同級生の家まであなたを案内しました。また、ニューヨーク巡りもしましたし、アメリカと日本との違いについても話しました。

旅の後、それまで抱いていたアメリカのイメージは、実際とは違っていたとのコメントもありました。それ以来、年に一回か二年に一回、ニューヨークかカリフォニアか東京で会うようになりました。学会でアメリカを訪れたときや、娘さんに会いにヨーロッパへ行く時は、必ず余分な料金を負担して、ニューヨークに立ち寄ってくれました。ドイツで行われた娘Anh Dao の結婚式の後、再会したとき、初めてこんなに泣いたわ!断腸(腸の一部が切断されたような)の思いで娘を嫁に出した。心に感じた痛みはbitter sweetの味がするよ。この気持ち、今に分かるよ!"と、語りました。Vinh さんと二人で、髪の毛についてふざけながら言い合いましたね。若かりしころの滑らかで青みがかった黒いあなたの髪は、今は白金のような白髪に変わりましたが、いつだってしっかりした髪でした。それなのに、Vinh さんの髪はさよならも言わずにどんどん去ってしまうことなど・・・。それだけの話なのに、ニューヨークで再会したとき、あなたは育毛剤を持参し、「植物と同様ちゃんと肥料をやり、耕さなければ綺麗なお花を咲かせることができないよ。髪のにかぎらず、人生についても同じことが言えるよ」と言いながら渡してくれました。やはりあなたは教師です。あまりにも良心的な教師です。

.ニューヨークで、Vinh さん と二人はManhattan島を一周する観覧船に乗ったり、Broadwayでミュージカルを観賞したり、イタリア・チャイナタウン巡りなどをしました。あなたはミュージカルを好んで観るようになり、「Chicago」というのを観てあなたが感想を述べました。「アメリカ人の考え方には深みがないと言っている人がいるけど、それは間違いだね」。その他まだ観たい劇があっても、いつも時間が足りなくて、予定通りに楽しむことができなかったものでしたね。我が家に来る前、必ず私の得意なフエ料理の牛肉としょうがを混ぜたヌクマムに浸したsalmon 焼きを食べたいと言ったり、ビールの次にワインを飲もうと決め、「なにごとも度を越さないようにするのが大事なので、飲食も適度にしましょう」と語っていましたね。旅をする間にもあなたの好きな研究に役立ててもらうためにニューヨークの辺りの大学に案内しました。日本女子大学と密接な関係にある家の近くのMarymount Collegeにも、東部に位置する大学にも案内しました。あなたはどこの大学も熱心に見学しました。「アメリカは本当に金持ちだ。書籍やものがとても豊富、日本は負けています。この国の学生は幸せですよ」と語りました。

Boston 付近に位置するWellesly女子大学を訪れたとき、「アメリカの学生がどのような生活しているのかを知りたい」と言って、どうしてもホテルではなく、わが娘の学生寮に泊まりたいということで、Chuyen伯父は学生たちとともに朝食、昼食、図書館などで一日学生寮体験をすることになりました。その日の夕食は学生たちに招待され、American Food.のsteakを食べ、帰宅してからあなたは私たちに「子供たちはお肉を大量に食べたよ!あれは一週間分の量ですね。食べすぎですよ!よくないと言ってあげないと」。子供たちは「そんなにお金を持ってないから毎日食べるわけではありませんよ、心配しないでくださいね、叔父さん」とくすくす笑いながら言っていました。

ある日、東京から電話であなたは嬉しそうに「Thanh Phương がHan さんの後に続いて一橋大学に入りたいと言っているよ!」と、良い知らせを届けてくれました。翌年の春、アメリカの大学生活や、日米の違いなどを自分の目で確かめて欲しいと思い、Thanh Phương Ayu を私たちのところにホームスティをさせ、Boston と Providence にある大学で勉強しているHa An, Thanh An のところにも連れて行きましたよね。そのとき、Anh Dao はもうすでに医師の資格を取得し、ドイツで仕事を始めていました。

二世の子供たちにはベトナムを研究し、また海外で生まれ育った我々の子孫はベトナムを理解するためにベトナムを訪れるようにして欲しいという思いを語りましたね。

ベトナムは大分変わったから、確かめるために一度帰国するよう勧められました。1997年の夏、私たち親子とThanh An がベトナムへ帰国することになりましたが、その途中日本に立ち寄り、あなたのところでお世話になりました。あなたと劉子さんが毎日、Cuu Long ちゃんを懸命に世話する姿を目のあたりにし、家庭、大学、ふるさとのために蜂のように働くあなたの一日は24時間ではとても足りないと思いました。Thanh An はベトナムが気に入って、同年の夏、Hueにあるお寺に3週間泊まりましたが、そのことに関して、「思った通りだね、我々の子孫はきっとふるさとベトナムを愛するようになる。そのために、ふるさとに関心をもつこと、それが愛する気持ちに変わり、そして協力するようになる、それぞれの間の距離はほんの一歩だけなのです」。あなたが言われた通り、その後子供たちは時間などの都合に応じてHue の病院に協力するために帰国するようになりました。

近頃のあなたは、お二人で始められたケアホームのことをよく話してくれましたね。ハンディキャップの方を援助する目的で作られたケアホームのためにどれぼど劉子さんが頑張っているか,彼女の活躍ぶりをとても誇らしく話してくれましたね。このケアホームのプロジェクトが成功できたのはすべて劉子の力で、劉子の努力の賜物ですよ。だから彼女はぼくとNewYorkに行く時間など取れないんですよ。と。そして最後にGood job,Ryuko!"とニコニコして話してくれたあなたの顔を今でも鮮明に覚えています。近い将来、必ずヨーロッパやアメリカへ一緒に家族旅行に行きましょう。Anh Daoや、Ayu たちと一緒に是非ぜひ行きましょうと約束した....... 私たちはその旅をどんなに楽しみに待っていたことか知れません。予定は2008年の秋だったのに.....

New Yorkから Bostonまで移動中、車内で音楽を聞きながら会話をしたある時のこと、流れていたCDの最初の曲は「母のふるさと」でした。「異国で歩み、浮き沈む気持ち・・・」のところであなたは聞きました。「だれのCD?」「友人に貰ったばかりです、とにかくつづけて聞いていてください・・・」とVinh さんが答えました。それから以下の歌詞を聞いたとき、

「帰国の日を約束せず故郷を離れ

あなたが戻ることなく去ってゆくあの日

小妹が傷心の諺を歌い

小妹は川だったら

海沖であなたと再会

小妹が雲になれば

雨の中であなたと会い

小妹は単に砂石だと知り、

苔で覆われるのを待つ人生」

あなたは言いました。「今の歌、曲名は?もう一回聞かせてもらえますか」。すると、Vinhさんは「母のふるさと」「砂石」との2曲を流してくれました。「いいですね!歌詞を書いた人は誰なの?」「作詞は先生の後ろに座っている人ですよ!先入観を与えてはいけないから、あえて最初から言わなかった」。目を丸くしてあなたは後ろを振り返り、「えぇ?あなたが書いたの?」

家に戻ってから「砂石」の曲だけを繰り返し録音するCDを作るよう頼まれた。そして東京に戻ってからも時々その曲を聴きながら気持ちよく仕事をしたそうです。

残念なことはあなたがその曲をそこまで気に入った理由を聞きそこなったことでした。私に今できることは、その曲をあなたにささげることです。

あなたからの最後の便りに、こう書いてありました。

「時間を見つけてNew York に立ち寄りたいけれども、The Bee is busy, busy all the time!アメリカで生活を送るのは大変ですが、人生を楽しめる時間が日本よりも多いと思います。朝会社に出勤するのに、あなたとVinhさんに車で駅まで送ってもらったとき、電車が来るまで車の中でずっと話していました。そのなかで、「この人は織機のような働きものだ」、「でも蜂にはかないませんよ」とあなたに言われたことがあり、ご自身を蜂と例えることがよくありました。アメリカでの暮らしは大変とはいっても、日本ほどではないと語っているのは、あなたは働きすぎだからだと思います。Thanh Phuong もそう言いました、「お父さんは頑張りすぎだ!」

我々は最近どういう訳か人生観についてよく語り合います。

幸福についてあなたが記したこと。

「幸せかどうかは自分の心持ち次第だと。僕もHan さんと同じように思います。幸福と感じることができるか否かで幸福にもなれるし不幸かにもなれるものです。人間には前進も停止もできるようにならなければなりません。

だれかが言ったことですが、朝目覚めたとき、今日もまたもう一日愛をささげられることに感謝しなくてはならないのです。

私からの返事、

"Definitely, life is very short, and the older you get the shorter you feel about what's left in life for you...!!!

(Thus, I understand why older people want to live longer....)

Treasure the happiness that falls into your life and count your blessings.

Only what belongs to you are really yours, everything else are nothing

The world is a "ball of confusion over strange things"

あなたから、

Hi Han.

Subarashii kangae da ne !!

Please enjoy what you have now! Life is too short!!!!「もうどうにもならないこと考えないように!!!!」

Bravo Han

NVC

まさかそれが、人生最後に交わした言葉になるとは思ってもみませんでした。

あなたが脳卒中に倒れたという知らせを受けた時、私はCaliforniaにいました。あなたのファンが皆集まって、Chon Thanh先生(お坊さん)にお願いし、LienHoa寺で求安式を行いました。「どうか私たちから離れないよう、私たちのところに戻れるよう、奇跡が起きるよう」と友人一同祈りました。しかし神様は私たちの誠意に応じることなく、あなたをこの世の世俗的な束縛から解放しました。私たちがNew Yorkへ飛ぶ途中で、あなたは天国へ旅立ちました。半世紀近くに及んだ良き友人が安らかに眠れるところへ見送りに、Vinh さんはNew Yorkに着くと、折り返し、次ぎのフライトで東京へと向かいました。

45 年前羽田空港へChuyen さんを迎えに行き、まさか今Chuyen さんの棺を肩に担いであの世に見送ることになるとは思ってもみなかった」と友人に話しました。

一方、私の方ですが、あなたの葬式が行われた日、会社から帰宅の途中、New York の空に輝くレインボーを電車から見ました。40年近くここに住んで、河と空に聳える高層ビルにかかるレインボーを見えたのは初めてです。これはあなたから私たちへのメッセージだと信じたいのです。そのほうがあなたを突然失うものとしては心が癒されます

家庭、友人、仕事、社会責任のあらゆる面において調和が取れ、考え方が明確で、決断力と柔軟性の両方を持ち合わせるあなたのような方がいなくなって、周囲の人々にとって失うものが大変大きい!中には電話を手に「残念、とても残念」「本当に残念」と繰り返し語るだけで胸がいっぱいになる友人がいました。

あなたを、すなわち知己を失うことで、優しく甘い声も、心を癒してくれる人も失い。あなたを失うことで、自分の詩を朗読してくれる人も失

親友の旅立ちと共に

心も

微笑も

魂も一部連れ去り

空いた心が

呼吸のリズムと共に痛み

思い出の数と共に

祖国を離れる日々深く心痛む

あなたが語った

祖国は自分たちの

ふるさとはそこにあり

できることを行えよ

僕は蜂だから

休まずに働き

我がふるさとはそこにあり

できることを行えよ

書きなさい、とにかく書くことです

書きなさい、もっと書くように

呟く声が聞こえ

あなたからのメッセージ

僕は星となった

高いところから見て

キラキラと光るこの世

鳥たちの群れと歌う

僕に涙を流さないで!

こちらで僕は安らかに眠る

書きなさい、もっと書くように

立ち止らないように、後退してしまうから

ふるさとはそこにあり

可能なことをするように!

皆さん、Chuyen さんが無限に広い天国で安らかに眠れるようお線香を上げて祈りましょう。60歳代に入ってから先がどんどん短くなり、なるべくお互い分かち合えるように時間を割こと思います。

「節度ある蜂であるあなた」は今でも、私たちの近くにいて、いつものように電話やe-mail で話せるような気がしています。「蜂であるあなたは70歳になる2014年に退職すると約束しました。「New Yorkの秋、落ち葉の森を観たことがないので、是非退職後、秋をねらって、New York に訪れたいから、引越しをしないように。毎年会いに来て、もうちょっとゆっくりいられると思います」

今年、家の庭に蜂が沢山飛び回っています。もしかしたらその中に、会いに来てくれたあなたがいるではないかと思いつつ。

Le thi Han & Nguyen Ba Vinh

この文は Nguyen Van Chuyenさんの親友からエピソードを頂き、まとめたものです。
Hastings-on-Hudson, New York 7月2008年

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和訳:小鹿ジェムギー (Trần thị Diễm Nghi)