伝説のベトナム人

九州大学熱帯農学研究センター・教授  緒方 一夫

1.「ルオン・ディン・クアを知っていますか」

  私の大学の同窓会名簿の昭和 22 年卒業の欄に,「梁 定国」という方の名前があります.「Luong Dinh Cua」と読みますが,出身についてサール高とだけあって,国名が書いてありません.昭和22年卒業ということは,太平洋戦争中に入学し,終戦直後も日本に留まり卒業したことになり,いったいどのような方なのか気になっていました.1997年に初めてベトナムを訪れた時,その疑問の一部が解けました.それは,ハノイ農業大学を訪問した時のことでした.大学の展示室を教官の方が案内しながら,農民に指導しているベトナム人の古い白黒写真を指して,「ルオン・ディン・クアを知っていますか」と尋ねてきたのです.クア氏は同大学の創設期に在職した人で,日本の大学で勉強してベトナムの農業に貢献したとして,ベトナムではたいていの人がその名を知っているということでした.しかし,なぜ私に訊うたのか不思議に思っていると,「九州大学を卒業したはずですよ」とのこと.そこで初めて,「同窓会名簿にあった,あの人か」と気づいた次第です.  ベトナムでは著名で,しかも私の母校の出身者であるというのに,うかつにもその業績を知ることがありませんでした.ただ,退官された先生から,「ずっと以前に中国で開かれた学会に出席した時にベトナム人がいて,『自分も九大出身でクアといいます』といって話しかけられた」と,うかがったことがあります.

2.クア氏の伝説

  最近,「ハノイから吹く風」(共同通信社,2000)という本を読んで,やっとクア氏の背景がわかってきました.この本は,クア氏と結婚した中村信子氏という日本人女性のつづった自伝です.中村氏は福岡市出身ですが,ベトナム戦争中クア氏とともにハノイに住んで,サイゴン解放を日本語放送で語ったという方です.この本から,夫人からみたクア氏の足跡をたどることができます.中村氏との出会いのいきさつ,九州大学の卒業,京都大学での大学院時代,その後,抗仏戦争時代にサイゴンへもどり,やがてハノイに入り,ハノイ農業大学創設期の活動,ベトナム戦争時代の苦楽と終戦,突然の死去(1975年,享年55歳)と中村氏が語るクア氏は,激動の中にあって高い理想をもち,優しい人であったことが偲ばれます.  クア氏については,この中村氏の著書を除くと,日本ではほとんど知られていません.ベトナムでの資料によると,クア氏は1920年に生まれ,両親を少年時代に失い,親類の援助で中国に渡り,最初は香港の医学校,次いで上海で経済学を学んだようです.しかし,戦況悪化のため中国での勉学を断念,日本への留学を決意し,東京で1年半日本語を習った後,1944年頃九州帝国大学農学部3年次に編入しているようです.やがて終戦を福岡で迎え,1945年に,当時作物学教室に研究補助員として在職していた中村信子氏と結婚,同大学を卒業後,京都大学へ移り,木原均教授の下で1951年に博士号を取得,1952年サイゴンにもどり,解放区の北ベトナムへ移り,1956年ハノイ農業大学創設時の最初の教授として迎えられます.1960年代は農業研究所の副所長としても活躍し,農民に実践的技術を指導する一方,多くの作物品種を開発していったようです.1966年には,ベトナム政府より「労働英雄」という賞が贈られています.ベトナムでは,クア氏の名前を冠したコメ,メロン,サツマイモなどがあり,今日でも,偉大な農学者として人々の記憶に残っているようです.

3.ベトナムの留学生

  ベトナムは,古くから勉学を重視する風土にあり,古くより選抜されて中国に留学する制度があり,フランス植民地時代は宗主国への留学もありました.今世紀初頭,日本の明治維新・日露戦争に刺激されたドンズー運動というものがあり,1907~08年頃日本へ留学したベトナム人は,約200人といわれています.しかし,この動きは抗仏独立運動であり,当時の日本政府は,フランス政府の要請により封じてしまいます.満州事変以降のアジアからの留学は,「大東亜共栄圏」構築のスローガンのもと,積極的に招かれたようです.東南アジアからの留学生については,「国際学友会」という組織が設立され,1942年からは日本が軍政を敷いた東南アジアの各地から,「南方特別留学生」を招致するようになります(クア氏も「国際学友会」の支援を受けていた).しかし,留学生は,戦時体制の下で,「大東亜省」の強い統制下に置かれることとなるのです.クア氏が来日し,九州大学へと編入された1944年頃は,留学生の疎開措置がとられ,出身地別に,満蒙は東北地方,中国は京阪・山陰地方,南方(現在の東南アジア)は中国・九州地方へ,大学在籍者は京都大学へと配置させられたそうです(永井道雄他「アジア留学生と日本」,NHKブックス,1973).日本の敗戦とともに,当時の留学生は様々な運命をたどることになるわけですが,その複雑な事情は想像に難くありません.クア氏の卒業年次である昭和22年は,日本の大学にとっても複雑な時期で,その年9月末から,各帝国大学から「帝国」の文字が消えた年でもあります.  現在,ベトナムからの留学生数は1300人以上とされており,九州大学大学院生物資源環境科学府だけでも10名以上が在籍しています.ベトナムの大学は 100 以上を数えますが,その中核となる高等教育機関は,1950年代に設置されています.創設当初の大学で教鞭をとることになった人々は,それまでに各国へ留学した知識人が多かったようです.留学は知識や技術ばかりでなく,比較対照の幅を広げ,バランス感覚をもつ指導者を生む機会でもあると思われます.

4.クア通りを歩く

 ところで,2003年にハノイ農大プロジェクトへ短期派遣された際,ハノイ市にクア氏の名前を冠した通りがあるという話を聞きました.そこで,さっそく行ってみることにしました.その通りは,JICAのプロジェクトが実施されているバックマイ病院の北にありました.ベトナムの通りの名前には,著名な人物が冠されています.例えば,「ハイ・バー・チュン通り」などは,ベトナムではなじみの深い人物に由来しています.これらは,ベトナムの市制委員会が付しているものだそうで,クア通りにクア氏が住んでいたというわけではありません.しかし,通りを歩きながらその名称を示すプレートを見て,今私たちの大学に来ているベトナム人たちの顔が浮かんできました.彼らは帰国後,どのような人生を歩むのでしょうか.ベトナムでのJICAプロジェクトが,私にとって思わぬ歴史を掘り下げてくれました.そして,人を育てることの重要性を,この歴史は物語っているようです.

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Nguồn : 福岡県JICA派遣専門家連絡会 - News Letter # 13 (2004 / 2)