< Nếu không đọc được font tiếng Nhật mời đọc bằng pdf format : >

『福翁自伝』のベトナム語訳を手がけて

PHAM Thi Thu Giang

一 はじめに

 今から三年前だったと思う。ある日、奈良女子大学図書館の書庫で参考文献を探していた時、たまたま中央公論社の『日本の名著』が目に入った。それまで、このように日本の傑作を集めた便利なシリーズがあるということを知らなかった。手に取ってみると、知らない著者名が多い中で福沢諭吉という名前が目にとまった。というのは、国にいた時に『学問のすゝめ』のベトナム語版を読み、福沢について少し聞いたことがあったからである。

私にとって福沢は日本の最も価値の高いお札に肖像のある人物で、明治維新を指導した「大政治家」であるというイメージであり、福沢の人生と業績について、それ以上の知識は皆無に近かった。そのシリーズで、『福翁自伝』は日本の自伝文学の傑作として紹介されていた。本文を読んでいくと、偉大な人物であるとされてきた福沢諭吉が、謙虚な言葉で語り、自分の性癖や弱点もそのままに開陳していることにいつのまにか惹かれ、最後まで読むことを決心した。

読み進めるうちに、私のそれまでの福沢諭吉像と明治維新前後の日本社会に対する認識が次第に変わってきた。『福翁自伝』の全十五章を通じて、福沢の幼い頃から晩年までの人生と当時の日本社会の変動が生き生きと描かれており、ベトナム人である私は驚くことが少なくなかった。ベトナムと日本は同じ漢字文化圏にあるといいながら、相互理解が進んでいるとは言えない中で、福沢諭吉と明治維新の実像について他のベトナム人にももっと知ってほしいという気持ちから、私は『福翁自伝』のベトナム語訳を志したのである。

 

 二 『福翁自伝』翻訳の実際

こうして翻訳を決心したものの、一回目の原稿が完成したのはその一年後であった。福沢諭吉は自分の意志をはっきり語り、文章も説得力に溢れているため、古い言葉、特に当時の中津、大阪、江戸の言葉は難しかったけれども、早く最後まで読みたいという気持ちが募り、たびたび深く共感しながら読み進めた。しかし、それは翻訳の第一段階のことであった。その後、一つ一つの言葉をより正確にベトナム語に直そうとしたら、問題が次から次へと発生してきたのである。

ベトナムと日本は元々同じ漢字文化圏にあるため、日本語の漢語をベトナムの漢越語にそのまま訳すことができる。漢越語を使うことによって、ベトナム人の読者が日本文化と親近感を感じ、分かりやすくなると考えて、翻訳の過程においてできるだけその利点を生かした。しかし、漢字を受容してから、長い歴史のうちにベトナムと日本がそれぞれ変容したため、今は相互に通用しない語彙も少なくない。例えば、『福翁自伝』のタイトルを訳す時にもこのような問題にぶつかった。最初から『福翁自伝』をそのまま漢越語で「Phúc ông tự truyện」に直すことにしたが、一般的ベトナム人は一目で「 Phúc ( フック ) ông ( オン ) (福翁)と「tự truyện」(自伝)の意味を理解することができないと予想された。福沢諭吉の名前を漢越語に直すと、「 Phúc ( フック ) - Trạch ( チャック ) Dụ ( ズー ) - Cát ( カット ) 」になるが、それを知っても「 Phúc ( フック ) ông ( オン ) 」(福翁)が福沢諭吉であるということを簡単に推測することはできないと思われた。一方、「tự truyện」(自伝)はよく考えれば意味が分かるかもしれないが、現代のベトナム語には使われていない。そういった理由でタイトルの下に「福沢諭吉(日本の明治維新の先進的人物)の回想記」と注釈のような言葉をつけることになった。

さらに、『福翁自伝』が百年以上も前に執筆されたものであるため、私には当時の言葉の意味を容易に理解することができなかった。日本の国語や歴史に関する各種の辞書だけでは解決できなくて、日本人の先輩に助けてもらった。ベトナムでの日本研究は進んでいないので、ベトナムで発行されている日越辞書に頼ることができず、特に日本社会に独自な物事の場合はどのように訳すかを考えなければならなかった。例えば、幕末時期によく議論されていた「尊王攘夷」思想である。「尊王」はベトナム人にも通じる。ところが、「攘夷」は漢越語に直すと「 nhưỡng ( ニュヨン ) di ( ジー ) 」になる。それはベトナム人にとって馴染みがない。意味から見れば「 bài ( バイ ) trừ ( ツー ) người ( グオン ) nước ( ヌオック ) ngoài ( グオアイ ) 」(外国人排斥)、あるいは「bài ngoại」(排外)に訳せるが、「攘夷」の意味を完全に表現できる言葉ではない。しかも「攘夷」は幕末時期の政治変動を象徴する一つの運動で、他の言葉に変換できない。そのため、 nhưỡng ( ニュヨン ) di ( ジー ) 」という用語はベトナム人にとってまだ馴染みがないが、重要な歴史的概念として認識してほしいと考えて、『福翁自伝』のベトナム語訳に積極的に入れてみた。さらに、「家老」や「蔵屋敷」などのベトナム語にあるはずもない言葉の場合はそのままの日本語の読み方をローマ字で表して、その意味を註につけることにした。このように言葉を選ぶ作業を通じて、日本語はいうまでもなく、母国語も深く考える機会を得られたのは幸いであった。

一方、日本の地名と人名にも問題があった。日本語の読み方そのものが外国人にとって簡単ではないのはいうまでもないが、さらにベトナム語でどのように表記すればベトナム人の読者が正確に読んでくれるのかも問題になった。例えば、儒者である頼山陽を最初に「Sanyo」と表記した。しかし、「Sanyo」を逆に日本語に直せば「さんよ」か「さんよう」、あるいは「さんにょう」かを区別できない。そこで、日本語の長音と短音を区別するため、長音の場合ならその母音の上に傍線をつけることにした(例「きょう」は「kyō」)。さらにベトナム語では語彙を子音と母音の組合せで読む習慣がある。「Sanyo」と書けば、「San-yo」と読む人がいれば、「Sa-ny-o」、「Sa-nyo」と発音する人もいる。このようにいろいろな表記のしかたを試みた結果、「山陽」を「San’yō」にした。さらに人名と地名に関する説明も註に加えなければ、ベトナム人の読者が文章の意味を把握することが難しい。幸い二〇〇一年に慶応義塾大学出版会が発行した『福翁自伝』は、富田正文氏による丁寧な校注で地名と人名の読み方だけではなく、それに関わる情報も詳しく、非常に参考になった。人名と地名の妥当な表記のしかたに辿り着き、全体を統一させて、注釈を整理することも一苦労であった。

日本の仏教史を研究するという私の本来の仕事のかたわら翻訳を進めたので、原文とベトナム語の原稿を対比すること数十回を経て、完成するまでに結局三年近くかかってしまった。そのような困難や言葉と文化の壁などを越えて翻訳を完成させられたのはやはり福沢諭吉の思想とその人格に深く引きつけられたからである。

 

三 ベトナム近代史の再考へ

近代ベトナムで最も早い段階に福沢諭吉の思想から影響を受けたのは、二〇世紀初め頃活躍した独立運動指導者の ( ファン ) ( ボイ ) ( チャウ ) である。彼らは明治維新の成功と日露戦争の勝利から強い刺激を受け、日本政府に武器援助を求め、一九〇五年に日本を訪れた。しかし、彼らの希望は拒否され、武器の援助から遊学へと目的を変えることになった。一九〇七年に二〇〇人の遊学生が横浜や神戸や長崎などの港から上陸することによって、「東遊運動」が始まった。

ファン・ボイ・チャウが日本に来たのは、福沢諭吉が亡くなってから四年後のことであった。彼は祖国を一日も早く解放したいという熱い愛国心から、福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」という精神と「日本を富強にするが大本願」という信念に強く感激した。

また、彼は日本に滞在する間、国に送った手紙の中で福沢諭吉と吉田松陰に言及している。さらに、日本から離れた後一〇年近く経っても、福沢に対する思いは変わらなかった。一九二五年に当時ベトナムの都であるフエで演説会を設けたが、その時に次のように語っている。「日本の大儒である福沢諭吉が述べたように、一国の魂はその国の青年・学生にある。言い換えれば、青年・学生は国民の魂である」(東西文化言語センター編『 ( ファン ) ( ボイ ) ( チャウ ) 全集』、第七巻、トゥアン・ホア出版社、二〇〇〇年)と。ファン・ボイ・チャウが福沢諭吉を偉大な愛国者、革新家、教育者として見る一方、ここで福沢を「大儒」と呼んだことに注目しておきたい。彼は福沢の精神を到達すべき目標として憧憬の意を何度も表したが、日本に滞在する期間が短すぎたために、当時日本人が持っていた進歩的知識も身につけられず、儒教的思惟から離脱できなかった。福沢が儒教を批判して、一八五四年に長崎で蘭学を勉強しはじめたにもかかわらず、その五〇年後に上陸したファン・ボイ・チャウには、福沢諭吉は「大儒」にしかみえなかったのである。

ファン・ボイ・チャウが活躍した二〇世紀初め頃の民族解放運動の敗北については、当時のベトナムにおける革命の歴史的条件が未成熟であったという見解が従来の研究によく見られる。欧米の帝国に侵略されるという同じ危機に置かれた前近代のベトナムと日本であったが、なぜベトナムが国家を守れなかったのかという問題は、同時代の日本社会、そして当時生きていた福沢諭吉の生涯、思想の形成過程を通じて見ることができる。この問題について詳しくは、別稿で検討したいと思う。

 

四 福沢諭吉と現代ベトナム社会

 『福翁自伝』のベトナム語訳は、昨年の五月に初めてハノイ市内にある出版社( Nhà ( ニャー ) xuất ( シュアット ) bản ( バン ) Thế ( テー ) giới ( ゾイ ) )から発行された。日本は先進国であるということはベトナムだけではなく、世界中の共通認識でもあるが、日本の文化や歴史はほとんど知られていない。したがって、約四五〇頁もある『福翁自伝』の翻訳が読者に受け入れられるかどうか、不安であった。しかしその半年後、十一月中旬に、出版社にはもう在庫がないという便りが届いた。しかも日本の明治維新を理解するのに最適な書物であるという意見もあれば、興味深い部分をベトナムの教科書に引用してほしいという声もあった。その読者の反応は翻訳した私にとっても出版社にとっても予想を越えるものであった。

 ベトナムにおいては、福沢諭吉は日本研究関係のごく狭い世界でしか知られていないが、その中でも誤解が多い。その一つは、先進国である現在の日本は、その発展の根源が明治維新からであって、しかも福沢諭吉は明治維新を導いた「大政治家」として取り上げられていることである。ところが、福沢も「わたしの才力がエライというよりも、時節がらがエラかった」(『福翁自伝』、富田正文校注、慶應義塾大学出版会、二〇〇一年〔新装版〕、二三五頁)と述べているように、少なくとも同時代のベトナムと比べれば、様々な面で幕末の日本社会の方が遙かに進んでいたのである。さらに自伝を読むうちに、福沢諭吉が一生の間、政治に対する関心が希薄で、「政治を軽く見て熱心ならず」とまったく功名心を持っていなかったことに気づき、私は衝撃を受けた。そこで、福沢諭吉だけではなく、日本の歴史全体も見直さなければならないと改めて考えることになった。

 福沢諭吉の評価については、戦後日本の研究者の中でも意見が一致しないようだが、百年以上前に書かれた『福翁自伝』は、現在のベトナム社会にとってまだ大きな意味がある。ベトナム人の読者の反応から見れば、福沢の自伝を通じて福沢諭吉とファン・ボイ・チャウ、日本とベトナムの近代社会の懸隔をはっきりと認め、さらにベトナムが現在も到達していない問題において福沢諭吉の思想から示唆を与えられたのではないかと窺える。一九世紀後半の段階で福沢が儒家の保守的考えと行動を批判し、封建社会に根づいた古風を徹底的に排除し、日本中に西洋の文明を伝えて、「新日本の文明富強」を築こうとした熱意は、私だけでなく他のベトナム人の読者を感動させたに違いない。

特に、教育の面からみれば福沢が一人で「数理と独立」の教育方針を決断し、慶應義塾で実践したという大胆な改革は、現在のベトナムの教育を築いてゆくうえでも学ばなければならないものである。「数理学」と「独立心」は当時西洋の発展の根源であり、それらが欠如していることが、東洋諸国が侵略の危機に落ちた原因であるという福沢の鋭い指摘は、時間も空間も越えている。「数理」、「実業」の必要性は認識されていても、福沢のいう「独立心」は、頼り合える共同体に対して強い意識を持つベトナム人には充分に理解されていないのではないかと思われる。まさに福沢が述べたように、「一身独立して一国独立す」なのであって、ベトナム人が一人一人独立的に考え、行動して、権力にこびない人材を養成していく必要がある。

 『福翁自伝』は当事者が語った話として、どの歴史の本よりも歴史的雰囲気が伝わってくる。それを通じて福沢諭吉の生涯、その偉大な思想の根源と形成の過程だけではなく、幕末から明治維新にかけての日本社会の激動も知ることができる。さらに福沢諭吉のたどった足跡から、当時のアジア各国がぶつかった問題も明確に見ることができる。

 このようにして、私は『福翁自伝』に現れている福沢諭吉の時代変動に対する敏感さ、古風に対する批判精神、新時代、新日本を作ろうとする熱意と説得力に満ちた文章に惹かれたのであった。

 

 (奈良女子大学 人間文化研究科 比較文化学専攻 博士後期課程在籍

 ファム・ティ・トゥ・ジャン